連想体系の違いによって起こった悲劇

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とある小学生とその担任の先生のお話です。

その児童( A さんと呼ぶことにします)は、クラスで1人だけ、体育の授業中に逆上がりができるようになれませんでした。

担任の先生は、少々熱血教師気味でした。

  • たった1人、逆上がりができないのは悔しいだろう。
  • 仲間はずれ感もあって、寂しいだろう。

と思いやりました。

そして、休み時間や放課後に、A さんを誘って、何日も何日も逆上がりのコーチをしてあげました。
(ここでは、「そんなの依怙贔屓だ!」「不適切だ!」などというご意見はとりあえず横に置いておいてくださいね。
 話を進めます。)

何日練習したでしょう。
ついに、A さんは逆上がりができました。

声を上げて喜ぶ A さんと先生。

先生は、

「よくがんばったね。
 逆上がりできるようになって良かったね。」

A さんは、

「やった! 逆上がりができた。」

とは言いませんでした。

A さんの一言に、先生は愕然としました。

A さんはこう言ったのです。

「やったー。これでもう練習しなくていいんですね。」

と。

先生は、A さんにとって、

  • 逆上がりが1人だけできないことは不快
  • できるようになることを快楽

だと、勝手に思い込んでいたのです。

さらに、 A さんは逆上がりができるようになりたくて練習をしている、と思い込んでいたのです。

一方の A さんにとって、実は練習は不快でした。

でも、

「練習はしたくありません。1人だけ逆上がりができなくても良いんです。」

と大好きな先生には言えなかったのです。
練習から逃れるためには、逆上がりができるようになるしか手段がなかったのです。

それで、仕方なく練習をがんばっていたのです。

完全に、先生と A さんの思い違い・すれ違いです。

  • 先生は最初から練習に誘う必要がなかった。
  • せっかくの思いやりがアダになってしまった。
  • 先生の思い込みで、A さんを苦しめていた。

そんな悲劇だったのです。

まとめ

このように連想体系は人によって違うので、相手の普段の行動を観察したり、直接聞いて確認したりして把握するということが大切です。

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